ゲド戦記アレンの影の正体は?二重人格でもう1人の存在?

ゲド戦記アレンの影の正体は?二重人格でもう1人の存在?

数あるジブリ作品の中でも、「最もジブリらしくない」と異端な作品として知られる映画「ゲド戦記」。

ですが、公開された2006年から早14年が経ち、時を重ねるほどに映画「ゲド戦記」という作品の奥深さに触れるジブリファンも多いかと思います。

 

主人公アレンの苦しみや、アレン自身が生み出した影の存在の本当の意味とその正体は二重人格からくるものではないかなど・・・

わかりにくかった当初の印象からファンの考察はどんどん広がり、実は奥の深い作品であったと気づく人が徐々に増えています。

 

今回は、映画「ゲド戦記」の主人公のアレンの影の正体は何なのか。

影が現れたのは、アレンに二重人格な性質があったからなのか。

考察していきたいと思います!

 

ゲド戦記アレンの影の正体は?

まずは、王子アレンとはどういう人間なのか?また影とは何か?

原作との違いも絡めながら、考察していきたいと思います。

 

ゲド戦記アレンってどんなキャラ?

映画「ゲド戦記」のもともとの原作は、アーシュラ・K・ル・クヴィンという作家によって書かれたファンタジー小説でした。

また、2006年に上映されたスタジオジブリで描かれた「ゲド戦記」のキャラクターは、宮崎駿の「シュナの旅」のキャラクターを元にして作成されています。

 

原作では、第三章の「さいはての島」に主人公アレンは登場します。

ゲド戦記の舞台は、アースシーといういくつもの島が点在する多島海世界で、アレンはその島の一つ、エンラッドと呼ばれる国の王子です。

アレンの住むエンラッドは、アースシーの島々の中で最も古く、歴史ある島でした。

きっと伝統やしきたり、礼節を重んじる国の資質があったのではないでしょうか。

 

エンラッドを治めるアレンの父親は賢王であり、民衆や家来たちからも敬われ尊敬されていました。

王もまた、兵や民や国の事を重んじて、エンラッドに降りかかるいくつもの厄災に対して常に民と国の事を考え政を行ってきました。

その賢王の息子アレンは、真の名をレバンネンといい、17歳の真面目な青年でした。

 

臣下や民衆に好かれ、誰からも尊敬される父王を幼いころから目にしてきたアレンにとって、父親の存在は良くも悪くもとても大きな存在だったと思います。

全てにおいて、一国を統べる王として完璧に近い人の跡を継ぐことが生まれた時から決まっていたアレンには、相当なプレッシャーだったのでしょう。

アレン自身も、真面目で、優しい青年なので、少しでも父に近づけるよう、きっとたくさん努力してきたと思います。

 

アレンの家族背景が垣間見れるのは、アレンが姿を消してしまった時の王と王女の対応からわかります。

姿を消したアレンを捜す侍女が、最近のアレンの不安定な様子を王に進言するシーンです。

 

王の後継者として・・・

 

後ろからアレンの母の女王が現れて、侍女を諫めます。

その時の女王のセリフがとても印象的に感じました。

「情けない。アレンももう17。子供ではない。」

と突き放すような発言をしています。

 

また、王に対しては「余計な気を煩わせて申し訳ありません。どうか王は民にだけお心を」と発言します。

一国の頂点に立つには、王としての威厳やどんなことにも感情的にならないようドンと構える素質が必要だとは思います。

しかし、アレンが精神的に不安定になり、さらには現状から逃げ出すというわかりやすい行動を示しているにも関わらず、この父と母は「大したことではない」と感じています。

 

このシーンから、アレンは幼少期から「一人の個性ある子供」として育てられてはおらず、「王の器にふさわしい者」としていろいろな制限をかけられて育てられたのではないかと考察されます。

そして、17歳という多感な年代になり、抑えつけていた不安やプレッシャーが心の中にあふれ、それを誰にも相談できずにいたのです。

 

誘惑に負けがち?

 

さらには、映画「ゲド戦記」の中のアレンは、悪意ある大人の誘惑的な発言に何度も身をゆだねようします。

ハイタカと訪れたホートタウンでハジアの売人に捕まった時に「苦しさも不安もすべて忘れて幸せになれますよ」という売人の甘い言葉につられ、麻薬のように依存性の高いハジアを手にしようとします。

 

悪役である魔法使いのクモに捕らえられた時も、「これを飲みなさい。心が休まる」と差し出された正体不明の液体を、疑いもせず飲んでしまいます

この時のアレンは、本来備わっているはずの人に対する警戒心や危機察知能力があまり活かされていません。

精神的に弱まっていれば、なおの事なんでもいいからすがりつきたいと思うことでしょう。

 

精神的にかなり参っている?

 

アレンが抱える心の中の自分への劣等感や、父親を殺した罪悪感は日に日に大きくなります。

張り詰めて苦しいこの現状から楽になりたいと思っているからではないでしょうか。

映画の後半では、アレンはハイタカやテルーの「生も死も受け入れ、限りある命を大切にすること」に気づかされ、本当の自分を取り戻し、敵のクモと正面から戦います。

 

アレンは決して弱い人間ではないと思います。

実際、剣の腕前は人並み以上に優れていますし、身体能力も高く瞬時の判断もしっかりできます。

手に豆ができても畑を耕すのを諦めない根性もあります。

 

幼少期から与えられてきた王になるための教育や周囲からのプレッシャー、母親に素直に甘えてはいけない環境。

そして偉大なる父親と自分を比べて感じた劣等感が、思春期という多感な時期に入って更に際立ってきてしまったのではないでしょうか。

 

また、アレンが父親を殺してしまうという行動の背景には、「父親への劣等感と怒りがあったから」そして、「辛い現実を目の前から無くすことで、少しでも自分を守る」ためではないでしょうか。

自分の弱さや苛立ち、不安や不満などの感情を押し殺し続けるしかなかったアレンにとって、「父親さえいなければ」という感情の方が大きくなります。

自分を不安定にする元凶を目の前から消してなかったことにしてしまったということなのでしょう。

どちらにしても、アレンの精神的に追い詰められてる感は半端ないなって感じですよね。

 

影の正体はアレンの「心の闇」?

劇中に出てくるアレンを執拗に追い続ける影の存在とは、一体何者なのでしょう。

ハイタカの姿でアレンの前に現れたり、父親の姿になってアレンを掴み黒いドロドロに取り込もうとしたり、アレン自身になって無言で追いかけてきたり・・・

アレンは終始、影に怯えています。

 

では、影とは一体何者なのか。

ジブリファンの中でも影の存在についてはいろいろと語られています。

主な考察としては

  • 影はアレン自身である
  • アレンの心の闇が具現化したもの

というものがあります。

 

個人的にもこの解釈は当てはまることが多く、納得できるシーンもいくつかありますよね。

しかし、ある場面を境にアレンを追い詰める影としての存在が違うものとして描かれ始めます。

それは、世界の均衡が崩れた元凶となった男「クモ」にアレンが捕えられてからのシーンです。

 

影はアレンの「本当の自分」だった!

アレンを探し回るテルーの前に、影が現れ、テルーをクモの城まで案内し始めます。

城についた時、影のアレンはテルーに「アレンの心の闇は体を奪っていってしまった。共にあるべきものを置き去りにして」と話します。

 

このことから、今まで現実に存在し動いていたアレンが実は負の感情の方だったことがわかります。

では「共にあるべきもの」とは?

共にあるべきものとは、まさしく正の感情を持つアレン自身のこと。

 

ここで、追いかけてきた影とはアレンの本当の自分の方で、本来主導権を握るべきはずの正の感情を持つ自分が体を取り戻そうとしていたからだったということがここでわかるんですよね。

 

影になってしまった本来のアレンは「アレンの心は不安でいっぱいだった」とテルーに話しています。

その不安が大きくなり、いつしか「不安を抱え怯える自分」がアレンたらしめる者として体の主導権を握ってしまったのでしょう。

 

しかし、マイナス要素たっぷりのアレンが体の主導権を握ったとしても、本来のアレンは「共にあるべき者だ」とテルーに話しています。

たとえ、マイナスなアレンが体の主導権を握っていたとしても、本来のアレンは一緒に存在しなければならなかったのです。

 

つまり、どんなに不安で恐怖に怯えていても、そういう自分もいていいんだと自分自身を許してくれる肯定的な自分がいなければいけないと影のアレンは伝えているのです。

マイナスな感情に飲まれそうになる自分を「臆病でもいい、不安になってもいい。それも自分自身なんだ」と「そんな自分も自分だ」と許して認めるてくれる肯定的な自分が「共にあるべき者」ということなのではないでしょうか。

その後アレンは、テルーに真の名を「レバンネン」と教えています。

 

 

「ゲド戦記」の世界では、普段他人に名乗る名と、信頼できる人以外には教えてはいけない真の名が存在します。

真の名を不用意に他人に教えてしまうと、心を操られてしまうからです。

 

アレンも、自白剤のようなものをクモに飲まされ真の名を教えてしまい、クモに操られてハイタカを亡き者にしようとしました。

テルーに真の名を教えたのは、「テルーなら、今のアレンに本来の自分を取り戻させてくれる」と心から信頼することができたからでしょう。

 

 

テルーは城に忍び込みアレンを見つけ、捕まっているハイタカとテナーを助けようとアレンを説得します。

 

しかし、アレンは自分が操られていたとはいえ、ハイタカを殺そうとしたことやテナーを巻き込んでしまう結果になったことに対して悔み、「自分はロクなことをしない人間なんだ」とひどく落ち込んで立ち上がろうとしません。

真の名でクモに操られ、ハイタカに刃を向けてしまったことや父を殺してしまった時のことが思い出され、自分は本当に生きる価値のない人間だとうなだれてしまいます。

そんなウジウジアレンに、テルーは「大切なものがいなくなっちゃうんだよ?」と涙を落とします。

 

アレンは「大切なものが分からない。人はいつか死んでしまうのに命を大切にできるのかな。」とテルーに打ち明けます。

テルーはそんなアレンに「一つしかない命だからこそ、精一杯生きなければならない。アレンは死ぬのをこわがっているんじゃない。生きるのを怖がっているだけなんだ。命は自分だけのものじゃじゃないよ。」と訴えます。

 

弱くて何もできない無力な自分や、消えてしまいそうな自分が嫌いで、でも父のように強く賢く堂々とできない自分。

父を殺しても、罪悪感や自分が放棄してきた超えるべき壁はなくならない。

わかっているけど、立ち向かうことが怖くて怖くてアレンはどうしていいのかわからなくて、言葉巧みに他人に操られてゆく・・・

 

そんな自分が嫌でたまらないのに、自分で乗り越えてゆくのが怖くてできない。

傷つくのが怖くて、自分が至らないことを知るのが怖くてと逃げ続けてきたアレンはテルーの言葉で生きる事の本当の意味に気づきます。

ここで、アレンは影を受け入れ、光と影に別れていた自分が一つになるんですね。

 

二重人格でもう1人の存在?

自己否定や劣等感などネガティブな自分が主導権を握っていたアレンは、ハイタカやテルーの言葉で本来の自分らしさを取り戻すことが出来ます。

ジブリファンの中には、影というもう一人のアレンの存在は、二重人格なるものからできたのではないかという考察も。

こちらも調べてみました。

 

影は二重人格でもう1人の存在なの?

二重人格として影をみることになると、影であるアレンの存在が具現化して人の前に現れる事は現実としてはありえない話ですよね。

それに、アレンは影の存在を認識していますし影が自分に何をしたかの記憶もあります。

 

本来、二重人格者や多重人格者の場合、一人の人間が体を支配している間は元の人格は記憶も感情も存在しません。

なので、アレンの場合は、二重人格というより、精神的な分離の状態を視覚化したという方が当てはまるかもしれませんね。

 

私たちも、心の中にいろんな感情を持つ自分が存在していると思います。

本来ならば、共に心の中に存在し、湧き上がるいろいろな感情も「これも自分らしさなんだ」と受け止めてゆくことが大切ですよね。

 

しかし、アレンの場合は、父親に対する劣等感や、閉塞的な環境に対して募る不満や、将来への不安を抱える自分は「存在してはいけないのだ」と捉えてしまったのではないでしょうか。

そして、全ての元凶である父親を殺害し、自分の世界から取り払うことでネガティブな自分に飲み込まれるのを防ごうとしたのではないでしょうか。

 

父親を殺したことで、アレンには罪悪感という新しいネガティブ要素が加わってしまいました。

そして、逃亡するという結果になってしまったという経緯です。

アレンの心は次第に分離し始めます。

 

父親を殺し、逃亡しても体は一つなので、本来のアレンも常に一緒に存在していることになります。

それを認めたくないということを表現しているのが、「影に追われる」ということなのではないでしょうか。

なので、影(共にいるはずの者)とは、アレンが目をそらしてきた自分自身ということなので、影は二重人格ではないということになります。

 

まとめ

「ゲド戦記アレンの影の正体は?二重人格でもう1人の存在?」と題してお届けしてきまいしたが、いかがだったでしょうか。

こうしていろんな考察を考えると、映画「ゲド戦記」って奥が深い作品ですよね。

今回のテーマはアレンの影の正体は何かということと、影の存在は二重人格からきているものではないかということで考察してきました。

様々な意見があると思いますが、こうした考察のなかからもそれぞれ捉え方の違う「自分らしさ」というものが垣間見えるかもしれません。

最後まで読んでくださりありがとうございました。