徳川慶喜と渋沢栄一の歳の差はいくつ?墓も同じ場所って本当?

徳川慶喜と渋沢栄一の歳の差はいくつ?墓も同じ場所って本当?

大河ドラマ『青天を衝け』の主人公の渋沢栄一。

渋沢栄一とゆかりの深い人物と言えば、『青天を衝け』では草彅剛さんが演じている徳川慶喜です。

歴史上でも関連の深かった2人ですが、歳の差が気になりますよね。

また大河ドラマ『青天を衝け』で渋沢栄一のファンになった人は、聖地巡礼の際に墓参りをしたいと思う人もいると思います。

実は、徳川慶喜と渋沢栄一の墓が同じ場所にあるという噂もあります。

信じがたいですが、本当ならすごいですよね。

そこで今回は、徳川慶喜と渋沢栄一の歳の差はいくつなのかや墓も同じ場所なのかについて調べてみました。

 

徳川慶喜と渋沢栄一の歳の差はいくつ?

まずは、徳川慶喜と渋沢栄一について詳しく紹介していきます。

 

徳川慶喜と渋沢栄一の出会いや関係は?

 

2人の出会いは、平岡円四郎という徳川慶喜の側近からの紹介でした。

当時の渋沢栄一は企てていた倒幕運動が上手くいかず、プラプラと伊勢参りをしていました。

そこで、たまたま知り合った平岡円四郎が一橋家への仕官をすすめます。

渋沢栄一は仕官を検討するも、まずは徳川慶喜に会いたいと申し入れします。

 

 

 

本来であれば、ありえないことですよね。

しかし、平岡円四郎のはからいで、渋沢栄一は郊外の松ヶ崎へ遠乗りする徳川慶喜のお供をしました。

 

その後正式に拝謁して話をしたうえで、仕官を決めました。

関係は、殿と臣下という関係です。

そもそも徳川慶喜とは、江戸時代最後の将軍ですよ。

大政奉還や新政府軍に対して江戸開城を行なった実績で知られています。

 

 

 

徳川慶喜は将軍を辞した後、写真や囲碁など趣味を楽しみました。

隠居後はかつての部下であっても滅多に会わなかったようですが、側近の渋沢栄一とはよく顔を合わせていたようです。

 

 

 

渋沢栄一は、生涯で500社もの企業を立ち上げた実業家です。

元は農民の家で生まれましたが、25歳の時にのちの徳川慶喜に使えることになりました。

 

その後徳川慶喜が将軍になったことで、幕臣を務めます。

幕末には、幕府代表としてパリに赴いた経験もあるようです。

明治維新後は一時期大蔵省の官僚になりますが、まもなく退官。

実業家に転向します。

 

 

2人の出会いからその後については、大河ドラマ『青天を衝け』でも詳しく解説されると思いますよ。

 

歳の差はいくつなの?

 

徳川慶喜は1837年10月28日生まれです。

一方、渋沢栄一は、1840年3月16日生まれです。

徳川慶喜の方が年上で、歳の差は3歳差ですね。

 

墓も同じ場所って本当?

渋沢栄一は、徳川慶喜の墓が見える場所を指定して墓を建てたと伝えられています。

 

 

渋沢栄一は、生涯をかけて徳川慶喜を信頼して尊敬していました。

その気持ちがお墓の場所からも感じられますね。

 

墓も同じ場所なの?

 

徳川慶喜と渋沢栄一の墓は、東京の谷中霊園の中にあります。

徳川慶喜の墓は、霊園内の寛永寺墓地にある他の徳川氏とは別の場所にあります。

徳川慶喜は生前神道での埋葬を規模していたため、谷中霊園にあるようです。

 

 

ちなみに徳川慶喜の葬儀委員長は、渋沢栄一でした。

強い絆を感じますね。

 

 

渋沢家墓所にある渋沢栄一の墓。

一族の墓所の正面から右にあるのが、渋沢栄一の墓ですよ。

近くにはお孫さんのお墓もあります。

実際にお参りする際は、節度ある行動を心がけるといいですね。

 

まとめ

徳川慶喜と渋沢栄一の歳の差は、3歳でした。

歳の差があまりないため、2人は強い絆で結ばれたのかもしれませんね。

そして徳川慶喜と渋沢栄一とお墓の場所は、同じ東京の谷中霊園の中にあります。

墓に入るようになっても、近くにいたいと思えるような関係だったのですね。

『青天を衝け』でも徳川慶喜と渋沢栄一の関係は詳しく描かれると思うので、今から楽しみです!